やりたいこと、好きなことは
わかっているのに、
それすらやる気が出ない時がある。
なぜだ・・・
そんな時もあるよね、
そんな時は休めばいい、
これもひとつの策。
でも、休むだけでは意味がない。
休んで立ち止まって「考える」。
やる気が出ないのはなぜか、
それは、好きなこと、やりたいことの中に
本当の自分じゃないもの、
実は望んでいないことが
混入していたから。
本当の自分じゃないものとは?
実は望んでいないこととは?
例えば、「フラメンコが好き」
なのに、凄くやる気が出る時と
全くやる気が起きない時がある。
やる気がある時は、本当に好きな
要素に集中できている時。
やる気が起きない時は、
今のわたしで言えば
ライブ出演を想定した時に、
湧いてくる余計な思考に
気を取られている。
フラメンコの何が好きなのか
理由は人それぞれ。
私は足の音とか、体という物質が
生み出すある種の何か(全く意味不明)
いろいろあるけれど、とてもマニアックな
モノに集中している時、ワクワクを感じる。
(と、最近やっとわかってきた)
でも、
ライブで上手く踊れるかとか、
人の目とか、まあ要するに本当に
ワクワクすること以外に
に少しでも意識が向くと、
途端にやる気がなくなる。
やる気がなくなると、
練習しなきゃと自分に圧をかける。
圧がかかると余計にやりたくなくなる。
私は私に圧をかけることを
長年やって来たし、それが
今まで慣れ親しんできた
自分自身の取り扱い方。
だけど、
それが病気という不具合を起こすことを
よくわかってきたので、
納得していないこと、
やりたくないのに、やらなきゃと
思い込んでいること、
そして、それは信じ込みだったのだと
認識出来たらすぐに
「やらない」選択ができるように
なった。
問題はいまだ「認識できていないこと」
のなかにある。
なので、やる気がない時は
潔くやらないという
選択ができるまでにはなった。
しかし、次の瞬間こんな思いが
よぎる
(ええ・・・でも、練習しないと
出来るようにならないじゃん!)
今回はこの思いに対処する。
私は私を疑いすぎていた。
「そのままにしたら練習しない」
→ 「練習しないとライブでまずいことになる。」
という方程式を組み立てるのが
大得意なわたし。
でもそれって、本当?
それ、自分を疑ってるよね?
ほおっておいても、練習する時は
練習するよ、この人
って、信じることもできる。
そうか!確かに。
とすれば、やる気のない自分の
尻を叩く必要はない、
そんな圧をかけずとも
勝手にやるタイミングが来る。
これが腑に落ちた途端
突然やる気が出た。
「気づき」は瞬時に意識を変える。
やる気が出ないなあと
ごろごろしていたさっきのわたし。
それが気づいたら、やる気がでて
いた。
この一瞬の切り替えの間、
何が起きたかと言えば、
今書きならべたことが起きていた。
ごろごろしながら、
あるYoutubeを見ていた。
社交ダンスの人の
体の動かし方についての動画だ。
それを見ながら
「ああ、私は本当はこういうことに
興味があるんだった」と気づいたのだ。
勿論興味があるから、その動画を
観たのだけど、思考、つまり言葉で
「私はこれこれがこういうふうに好きなんだ」
とはっきり認識した。
潜在意識から顕在意識へあげて
それをはっきり自分で認識した。
そして、同時に気づいたことは
「ライブで上手く踊れるかに
フォーカスしていた」ということ。
もし、私が本当に好きなことを
認識できなかったら、私は
「ライブに出たくないんだ」
と勘違いし続けていただろう。
ライブで上手く踊ることは、
結果であって、私が心底
望んでいることそのものではなかった。
私が本当にワクワクすることは、
動きとか音とかそういうもの。
それを追究して楽しんだ結果、
上手く踊れたと「認識」することが
あるかもしれないけど、
結果にフォーカスするから
やる気が失せる。
というプロセスを踏んで、
わたしが本当に好きなこと
ワクワクすることに気づいた。
私の中に、
本当の私が望んでいないものが
混入していたら、こうやって次々
処分していけばいいのか・・・
やる気がない時、面倒くさいと感じる時、
実は望んでいなかったけど
フォーカスしてしまっていた
ゴミのようなもの
を取り除くチャンス。
まだまだゴミは
いっぱいあるかもしれないけど
取り敢えず、今日出す分のゴミは
ゴミ袋に入れて捨てられたと思う。