わたしはわたしのピースを

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意識・メンタル

私の自由は私のために

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とてもモヤモヤしていた。

私が不快に感じる会話を耳にしたからだ。

 

でも、なぜそういう場に居合わせることに

なったか、理由はわかっていた。

でも、正確に言うと違う。

なぜそういう場面を目にすることに

なったのか、理由はわかっていた

というほうが正しい。

 

それは、まぎれもなく、私自身が

そこに行くことに違和感を感じていたから。

平たく言えば「行きたくなかった」

のに、私は私をないがしろにして

「行った」

私が休んだら迷惑だ、とか申し訳ない、

という思考を優先した。

 

誰かに迷惑だろうと考え、

がっかりさせることを恐れて

恐れを回避しようとした。

 

時に、誰かのために、と

人を優先する行為は、

「責任感」とか「思いやり」

という言葉で美化される。

でも、自分を裏切る、という重大な

側面と背中合わせになることも多い。

 

私は、私をないがしろにしたため

モヤモヤした。

その「モヤモヤ」状態の内面は

必ず現象として映し出される。

それが「不愉快になる会話を見聞きする」

という結果になった。

不愉快になる発言をした人が

悪いわけではない、

私がモヤモヤしていたのが

悪いわけでもない、

ただ、内面が映し出された、

それだけのことである。

 

人は私の気づかない領域の私を

演じて見せてくれる存在。

私が私を裏切って上手くいっていない

内面状況を「悪口」という形で

現象化したのだ。

 

・・・と分かったのなら、

私がやるべきことはひとつ、

「自分をないがしろにしない」

選択をする。

問題は、次回それが出来るか。

 

しばし、そこで足踏みをしていた。

「あの人はこういうだろう」

とか

「この人はこう思うだろう」

とか。

また、ぐるぐる思考を駆け巡る。

 

でも、私が私を裏切らなければ

私が恐れるようなことを

人は言わないし

私の目には映らない。

 

人情、友情、愛情、

それらは今私がいる社会では

美徳とされている。

この「情」シリーズ。

「情」と名のつく良さげなものに

私たちは縛られがちだ。

 

その時代、その社会のなかで

良いとされている「常識」は

その時代生きる人の間で変わっても行く

集合意識。

 

そして、私たちはその集合意識に縛られる。

故に、自分をないがしろにしたり、

自分を裏切ってしまうのだ。

集合意識が正しいと思うことを

優先せねばと思ったり、それから

外れると罪悪感を持ったりと。

 

だからそこから自分を自由に

してあげなければならない。

どうやって??

それは、私の「信じ込み」に気づいて

捨てること。それがただの信じ込み

であって、絶対的正義ではないということに。

 

「私が自由でありたいように

皆、自由なのだ」と気づいた。

私が不快になる発言を誰かがするも

自由、誰かが私の悪口を言うのも自由

それを聞いて不快になるのも自由、

不快にならないのも自由。

 

傷つくのも、そうでないのも

その人の自由。

私も傷つくかもしれない。

それも自由。

傷ついた、と感じることが不快なら、

何故傷つく必要があるのかを

探ればいい。

そこには必ず、無意識の

間違った信じ込みがあるから。

それに気づいたら、それを

捨てることが出来る。

捨てられるから、自由になれる。

 

そう考えていたら、いつのまにか

楽になっていた。

 

今までだって、

いろいろ言われてきたじゃない。

 

そんなことを重ねて、私は今まで

自分が思う通りに来たではないか!

何を今更、恐れる??

 

「人が私のことを悪く言う」

と書いたけれど、実は違う。

「私が私のことを悪く思っている」

だけなのだ。

 

私が私のことを1㎜でも悪いと

思っているから、

人が自分に悪口を言ってきたり、

誰かの悪口を言う、という光景が

展開される。

人は私が気づかない領域の私を

気づかせてくれる。

人が私のことを悪く思うだろう、

というのは妄想にすぎない。

 

だから本当は誰をも恐れなくていい。

私は私を責めず、悪いと思わず、

どこまでも私を第一にする。

それ以上に大事なことはないのだから。

 

私は自由。

私の自由は私のために使うべし。

自分をないがしろにするということは、

誰かの奴隷になるということなのだから。

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