このブログは
自分自身のために書いている
とどこかの記事で書いている。
といいながら、
「読み手」も意識してる。
一方、読み手のいない
自分の為だけに書いているブログがある。
そのブログは、自分の内面意識を
言語化するためだけのもの。
もやもやした感覚を
言葉化しようと試みる時、
予想もしない発見がある。
書き始めなければ
決して気づきえないものに
遭遇することがあるのだ。
文章化することで
とても整理され、クリアになる時と、
書いても書いても
なんか違うなと違和感が残る時もある。
言語化(つまり認識)が的外れな場合だ。
言語化が的外れでも
そこで辞めず、
分かろうとフォーカスし続けると、
次第にわかってくる。
自分の心は必ず
自分でわかるようになっている。
誰もが必ず。
実は今日、その自分専用ブログに
ひとつ文章を書きあげたのだが、
珍しく、このブログで
シェアしようかな!
と思えたので、コピペをしてみた。
しかし、ブログのシステムの問題か
思うように貼り付けられず、
一から、転記を試みた。
がしかし・・・
もう一度同じ文章を書くって
出来ないものなんだと気づいた。
どうしても、いろいろと直したく
なってしまう。
最初に勢いづいて書いた文章と
まるで別物になってしまう。
やはり、こちらのブログは
「読み手」を意識するためか
いろんなことを考え始めてしまうのだ。
(いや、これじゃ全く伝わらない)
とか
(この表現じゃないとわかりにくい)
とか。
という経緯があって、
こちらのブログへの転記も
シェアもやめた。
つくづく言葉って生ものだなって痛感。
生ものといえば
本当は踊りだってそうなんだ。
その時、踊りたい動きは
次も同じように踊りたいとは
限らない。
本当は踊りという表現も生ものなのに
・こういう動きの方が美しい
・こういう角度が望ましい
・こういう姿勢であるべき
という枠組みにとらわれ過ぎてしまう。
練習不要だとか、美しくなくていい
という意味ではない。
枠にとらわれ「過ぎて」不自由な
状態になることに違和感を
感じるという意味だ。
そんなことしてたら、
永遠に自分の奥から出てくる
踊りなんて出来ないじゃん。
(そのために要練習!というのも
重々承知のうえ!)
もっと人を自由にする踊りって
ないんだろうか・・・
形を問わず、踊っている本人が
最高に幸せになり、
人と比べることもせず
人からの評価に囚われず
自分自身の奥の表現が
できるようにならないものだろうか
そんなことを考えている。
フラメンコの新人公演や
コンクールの類を見てから
強くそう思うようになった。
賞を取るための研磨は
凄まじい。チャレンジしないと
決して得られないものがあるのも
よくわかっている。
でも、私はとても疲労する。
観ていて。
新人公演を見に行った日には
その後1週間肩こりが取れなかった。
娘の学校とか、いろんなものを
見てて、つくづく「競い合う」
世界にまるで興味がなくなった。
だからスポーツもオリンピックも
本音は大っ嫌い。
努力するのは素晴らしい、
けど、勝者はいつも一人。
それ以外は皆敗者なんだ。
もう、そういうピラミッド構造に
辟易しているの。
他人の承認を一切必要としない世界
自分自身が自分を最高だと
思える世界(踊り)を、
皆がそれぞれに表現(踊る)する、
それだけでよくない?
それが私の映し出したい世界。