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教えるということ

投稿日:2023年11月6日 更新日:

私は子供のころから

「教える」ということにただならぬ

興味を持っていました。

 

そして小学校の時から

一つの思い込みがありました。

 

できないのではなく、

出来ないと『信じ込んでいる』

『苦手意識を持っている』だけ

と。

 

頭がいい悪いって本当にあるのだろうか?

誰かに言われたとか、外部的な影響で、

自分は勉強ができないとか

頭が悪いとか、思ってしまったのではないか

 

本当は皆、妙な信じ込みがなければ

出来るようになるのではないか

 

という、仮説のような信念です。

 

算数が大の不得意な子がいました。

クラスで一番やんちゃな男子。

足は速くて体育は得意

だけど、勉強苦手 みたいな。

でも、この人興味を持ったら

とことんやりそうだな、

一度わかったら

やる気になるんじゃないかしら。

そう思っていたある日、

彼に算数を教えることになりました。

 

きっとここがわからないのではないか?

と当たりをつけて、説明してみると、

「お~~~!」

彼はわかったのです。

今まで出来ると思っていなかった苦手な

算数の問題が「わかった!」「出来た!」

という興奮。

私は涙が出るほど嬉しかった

「ほら、出来たでしょ?」

出来るんだよ、

出来ないなんて

思い込みだったの。

 

大学の時のアルバイトはほぼ家庭教師。

どちらかというと勉強が苦手な子の

中学受験、高校受験を見ていました。

教えてわかると「うぉ~~~!」って

言うのが感動で。

 

苦手だと思っていたこと、

出来ないと思い込んでいたことは

実は思い込みで、その人なりの

わかる方法がある。

だから、理解できれば誰でも

嬉しい。

その喜びを見るのは

もっと嬉しい。

 

幾度も繰り返してきた

輪廻転生において、

私は恐らく「教える」ということに

携わり続けてきたのではないか

と思います。

 

どう教えるか、

どう伝えるか、ということに

いつも興味関心があり、こだわりがある。

誰から教わらずとも

どう教えたらいいかわかる気がするのです。

 

私はフラメンコ教室を数年単位で

渡り歩き、ひとところに留まりません。

それは「どう教えているか」に

興味があり、それを無意識的に

研究しているからだ、

ということに気づきました。

 

なので、いつも気になるのは

「いったい、どのように教えているのだろう」

「その教え方素晴らしい」

とか

「そんな教え方じゃ、上手くならないよ!」

「なぜ、こんな大切なことを教えないんだろう」

「ここを、ちょっと伝えるだけで、

もっと上手くなるのに」

そんなことばかり。

 

ゆえに入門者に対して、

粗雑な教え方は

腹が立って仕方がなくなります。

入門者はベースとなる知識がない、

体験もない、わからない

という背景が想像でない

教師は本当に腹が立つ。

 

「一度言ったことがわからないのはダメ」

 

何様ですか???

人は最低でも5回以上

同じ事を伝えないと

記憶に刻まれないということを

知らないんですか?

 

あなたに「わからなかった」時は

なかったのですか?

あなたは一生「忘れない」で

い続けられるのですか?

これから忘れていくことの方が多い

年齢にあなたもなっていくということを

あなたは想像できないのですか?

 

上級者に対して言うのならまだしも

入門者にもそれを言いますか?

 

それを言うなら、貴方が言ったこと

どうしてコロコロ変わるんですか?

前に、Aって言ったから

その通りに覚えてきたのに

どうしてBだと突然変えて

圧力のある注意をするのですか?

一度言ったこと、

あなたは覚えていないのですか?

せめて「そこBじゃなかったかしら?」

という言い方が出来ませんか?

 

自分が出来ないことをなぜ

人に要求するのですか?

 

本当は上下関係も優劣もないはずの

教師と生徒

でも実際は教師という立場であるだけで

教えられる側は、上に見るし、顔色を見る。

特にその傾向が強い日本

日本は忖度社会といっても過言では

ありません。

 

先生は先生というだけで

圧力があり、

その発言は重いのです。

先生というただそれだけで

生徒から顔色を見られているということを

計算で来ていますか?

貴方の一言は想像以上に大きいのです。

良い意味でも悪い意味でも。

それがわからず教える立場に立つことは

危険であり害にしかなりません。

教師歴が長かろうとそれは

関係ありません。

ただ、長く生徒に圧力を

かけ続けてきたということです。

先生になったばかりの人でも

物凄く教え方の上手な人もいます。

相手が何を知りたいかがわかっている。

その想像力が豊かかどうかに

かかっていると思います。

 

故に、教えられる立場になる場合は

教える人を「厳選する」必要がある。

 

私たちは教えてくれる人に「お金」を

払っています。

教わる価値があると心底思わないのであれば

お金は払う「必要性」がありません。

お金は等価交換のツール。

教わる側は、教師の持っているものを

お金と交換するので、お金に期待する

ものを得られない場合は、

速やかに教わる対象を変えてもいい。

 

先生と親密になること、先生への気遣い

悪くはないと思うけれど、

それは時として、忖度というものに

すり替わる。

生徒に先生の目の色を伺わせない

配慮をしている教師はどれくらい

いるでしょう。

生徒と先生の関係性や距離感に

教師の在り方がうかがい知れます。

 

あの、先生って別に生徒より

偉いわけじゃないから。

 

ただ、先生と呼ばれる人は

その人が好きなことを少しばかり

多くの時間をかけて追及してきただけで

教わる側のあなたも、先生と同等です。

 

私が好きな先生はこんなことを

言います。

「先生とか誰かの話は100%正しいと

絶対に思わないように。私の話も

話半分で聞いてください。

必ずどこか間違ってますから」

 

教えるということを凄くわかっている人だな

と思いました。

美徳とされている「尊敬」

尊敬するからこそその人を

自分の「先生」として

選ぶわけですが、

ですが、ですが

 

尊敬すべき先生ほど、

尊敬はしないこと(笑)

 

これについては、またいつか★

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